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フェイク 第1570号

 投稿者:宿坊  投稿日:2017年 2月21日(火)10時15分19秒
  (発行=17.02.20)

悪僧が五重塔の銅瓦を売り着服
雪山坊住職・長倉信祐の非常識な行為 ㊦
学会の外護で修復し国の重要文化財に

雪山坊の長倉信祐がPTAの会合で配布したパンフには五重塔について「昭
和四十一年、国の重要文化財に指定された」との記述がある。この五重塔は、
かつて朽ちかけていて、それを修復したのは創価学会であった。この学会の外
護によって修復がなされた故に国の重要文化財に指定された事実を忘れてはな
らない。

明治の頃、五重塔の銅瓦を売却し、その代金を着服して贅沢三昧に耽り、自
宅を豪邸に造り替えた悪僧がいた。当時の大石寺内には酒樽が並べてあり、飲
み放題で乱れていたという。

この頃の法主は第五十五世の日布で、国柱会の幹部や未入信の宗教学者と一緒
に御開扉のあと「各々ようこその御登山、佛祖三寶も御満悦の事と存ずる……」
と歓迎の挨拶をした無能僧である。

この日布について第五十九世・日亨上人は「おだやかな人でね。ほとんど生
きているか、死んでいるか分からんような穏健な人」と語っていた。こんな無
能僧を騙して悪事を働いた狡猾な坊主がいたのだ。

五重塔の銅瓦を売却して着服した悪僧について日亨上人は次のように語って
いたので、少し長くなるが紹介する。

「その頃、久成坊に長谷川という現代向きの世才家があってね。すっかり、
人の良い日布上人をごまかしてしまった。自分の家などはね、文化式というか、
ほとんど旅館同然にこしらえたんですよ。中に廊下をはさんでね、南北にずっ
と客室をこしらえて。便所なんかでも立派なもんでしたよ。そんなことには才
があった。

ところが、ひどいことには五重塔の銅(あか)瓦をごまかして儲けたわけです。

この頃、トタンという珍しいカネができましたから、そのカネでもって作る
というと、萬代むきで、銅(あか)がねのように錆びはしませんから、トタンに
五重塔をふきかえた方がいいです、なんて貫主さんに言った。

貫主さんは何にも知らん人で、そうか、そんなものができたのか、じゃ、よ
ろしく頼むなどと言って銅を高く賣っちゃって、トタンぶきにしてしまった。

そういうバカなことをやっている。そして、それを塗ればよいのに塗らない
でおいたでしょう。そのトタンが錆びて、そこから漏るようになってしまって、
それで仕様がなくて、日應上人時代にですね、そのトタンをはいで、瓦にして
しまった。それが充分でないから先年、學會の厄介になって修理した」(「大
白蓮華」昭和三十一年十二月号)

トタン屋根の五重塔や雨漏りで朽ちかけた五重塔であれば、国の重要文化財
に指定されてはいない。

学会が五重塔を修復した時、学会本部建設の計画があり、昭和二十七年十二
月、信濃町二十五番地に建設用地を購入していた。

だが、本部新築を延期して用地を売却し、五重塔を修復したのである。

五重塔を食い物にした悪僧、それに対して本部新築を延期してまで修復した
学会。ここでも広宣流布への一念の違いが明白だ。

日亨上人は「そういう世才家があって、とても派手な騒ぎをやったらしかっ
た。酒樽をそこら中、並べてですね。飲み次第、食い次第で……とうとう借金
ができてしまった」と語っていた。


 
 

フェイク 第1569号

 投稿者:宿坊  投稿日:2017年 2月20日(月)21時19分15秒
  (発行=17.02.19)

PTAの会合で大石寺パンフを配布
雪山坊住職・長倉信祐の非常識な行為 ㊤
新築の奉安堂、客殿は一見の価値もなし

 日蓮正宗大石寺の雪山坊住職・長倉信祐は上野中学校のPTA会長をしてお
り、今月の富士宮市のPTA連盟の会合で会議資料に加えて非常識にも大石寺
のパンフを配布して問題視された。

 以前、顕正会の高校教師が校内で勧誘して教育委員会で問題になり、懲戒処
分になったという話を耳にしたことはあるが、PTA会長が会合を自分の所属
する宗教の布教の場に利用するとは前代未聞の珍事件だ。

 この長倉信祐は宗務院財務部長・長倉日延の長男で昭和四十五年一月生まれ、
五十七年七月に得度した。

 信祐は所化時代から乱れた生活だったとの話もある。態度は傲慢で、日正寺
(札幌市)の講員が脱講した翌日、その人の家に押しかけて上がり込み、ソファ
にふんぞり返って「誰に頼まれて脱講したんだ?」と喚き散らしていた。

 そこで、逆に脱講した人が「日蓮大聖人は誰のために御本尊を御図顕された
のか?」と問うと、黙り込んでしまい、捨て台詞を吐いて逃げ帰ったという。

 大正大学で仏教学の博士号を取得したと自負しているようだが、教職にも就
けず、住職にもなれずに大坊で捨て扶持を貰って食いつないでいたが、昨年の
八月、やっと雪山坊に入ったから舞い上がって暴走しているのだろう、と言わ
れている。

 日蓮正宗の坊主は社会常識がないというのが定説だが、長倉の非常識ぶりに
は驚くばかりだ。

 長倉がPTAの会合で配ったのは奉安堂、客殿、五重塔などの写真入りのパ
ンフで「歴史の勉強のために大石寺の見学をしてはどうですか」と提案してい
た。

 あの大石寺を見学しても歴史の勉強にはならないと断言する。奉安堂は平成
十四年十月、客殿も同十年三月に新築された安普請の建物。「まるで体育館の
ようだ」との悪評もので歴史的な価値など全く無い。

 日顕が約五十億円の巨費を浪費して破壊した正本堂は世界的な宗教建築物で、
鶴が羽ばたく姿を思わせる雄大な建造物だった。

 この正本堂は日本建築学会賞作品賞を受け、欧米環境設計協会、アメリカ建
築家協会、アジア・西太平洋建設業協会国際連盟からも表彰されるなど数々の
称賛を得ていたので世界遺産になっても不思議ではなかったし、見学する価値
は十分あった。

 だが、今の奉安堂と客殿は一見の価値もない。

祈りが乱れる御開扉

 パンフの奉安堂の説明文には「五千名分の椅子席が設けられている」と書い
ているが、日顕の祈りは大丈夫なのか?

 平成六年五月二十三日、丑寅勤行の後、日顕は怖い顔で「後ろの方で椅子に
座っている人、御祈念が乱れるから椅子に座っての参加はやめるように。どう
しても椅子に掛けなければならない人は明日からの参加を遠慮するように」と
冷たく言い放った。そこには足の悪い高齢者、正座に慣れない海外の檀徒もい
た。

 広宣流布を願うのであれば、高齢者や病人など全ての人の健康と長寿を祈念
するのが本来の姿である。

 日顕は今も時々、御開扉に出ているが、全員が椅子だから日顕の祈りは乱れ
ていることだろう。(つづく)



 

創大駅伝の話題

 投稿者:宿坊  投稿日:2017年 2月 9日(木)16時42分48秒
  箱根のレース中に背中をぽんっ!
"あの名シーン"のセルナルド祐慈さんにインタビュー 。

http://www.huffingtonpost.jp/yuki-kaminuma/hakone_race_b_14586882.html?ncid=engmodushpmg00000008

あの駅伝の感動が甦ってきます。

 

フェイク 第1568号

 投稿者:宿坊  投稿日:2017年 2月 9日(木)09時51分50秒
  (発行=17.02.08)

坊主が率先して身延派の寺巡り
日興上人の離山の精神に背く行為

教徳寺の移転法要で日如は謗法を破折せよ、と力説していたが、大石寺は謗法
の身延派とは昔から〝親戚付き合い〟を続けている。

昭和二十七年に創価学会員が登山するようになってからは表面上、身延派とは
疎遠を装い、特に昭和三十年三月、学会が「小樽法論」で身延派を粉砕して以
来、両派の交流は途絶えたかのように見えていた。

ところが、平成三年に日顕の悩乱によって邪宗と化した大石寺に学会員が登山
しなくなったため、身延派との関係は昔以上に接近した。特に、日顕が平成三
年の七月と十一月、教師指導会で波木井実長を絶賛したことで大石・身延両派
が急接近。両派は平成五~六年頃から相互に登山するなど親密の度合いを増し
たのである。

平成六年になると華王寺、能安寺、信盛寺の坊主と法華講員が鎌倉、佐渡の身
延派寺院への巡拝を始めた。

続いて平成七年の春には仏寿寺の坊主と講員が千葉県の誕生寺、清澄寺など日
蓮宗の寺を巡り、拝観料を払っていたことも発覚。だが、一切〝お咎(とが)
めなし〟だった。これにより、坊主らの身延派寺院への巡拝が盛んになってい
った。

これは「一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣ず可けんや」との日興
上人の戒めに違背している。日蓮正宗こそが正法の敵で、供養すれば堕地獄で
ある。

身延派は御本尊を参道の店先にぶら下げ、御守り本尊をカードにして販売して
いる謗法の山である。

本号では日興上人の身延離山の精神を踏み躙る「日蓮正宗と身延派との交流」
の足跡を総括する。

但し、紙数の関係上、恒例行事になっている富士学林の所化の邪宗巡り、及び
定例の「謗法ツアー」などは割愛し、主な邪宗巡り、身延派との交流に限定し
た。

◆平成六年四月二十四日、東京・華王寺(前川日秀、当時は慈肇、故人)がバ
  スをチャーターして身延派の寺巡りツアー。三十人余の法華講員と一緒に前
  川の女房も参加していた。
一行は安房、小湊へ行き、鏡忍寺、清澄寺、誕生寺の順に身延派の本山格の三
カ寺を巡拝し、帰途のバスの中では皆、上機嫌だった。

◆平成六年六月十一日、埼玉・能安寺(水島公正)が「鎌倉研修」を実施。鎌
  倉の大仏、鶴岡八幡宮などの神社仏閣巡り。この日は法華講青年部の一泊登
  山と重なっていたが、大石寺に行かず、この謗法ツアーに参加。また「研修」
  とは名ばかりで、宗門の護国寺が近くにあるにもかかわらず、夜の勤行もし
  ないでホテルに着くと宴会に興じ、翌朝も勤行をしなかった。

◆平成六年十月八日、長野県・信盛寺の落合尊福は法華講員を引き連れて佐渡
  に渡って謗法巡り。貸し切りの観光バスには「信盛寺佐渡順拝の旅」と書か
  れたプレートを付けていた。
身延派の妙宣寺、根本寺などの寺を巡り、講員は賽銭箱に金を投げ入れ、真剣
に合掌していた。

◆平成六年十一月五日、身延派の布教師会一行が大石寺に参拝。それを大石寺
  側が丁重に迎えた様子が身延派の「布教師會報」第二十号に「日蓮正宗総本
  山・大石寺研修参拝記」として掲載された。大石寺を訪れた久遠寺志摩坊住
  職・佐藤順映師は平成四年に「日蓮正宗を門下連合へ」と提唱した人物であ
  る。

この「参拝記」の公表により、身延僧八人の参詣は「大石寺内事部の理事から
の応諾の電話を頂戴」して実現したとか、後日、案内役の大石寺僧から丁重な
礼状が送られてきたなどの裏事情が明るみになった。この身延僧の「大石寺研
修参拝記」は『現代仏教』に「他宗には門戸開かぬ大石寺に柔軟性」との見出
しで掲載された。(左の資料を参照)

この「大石寺内事部の理事」とは小川只道のことで、小川は「(身延の)皆様
の暖かなお心に触れ(略)暖かな気持ちで御案内申し上げることができました
ことを感謝しております」との「礼状」を送ったのだ。

◆平成七年三月十二日、関快道は都内狛江市・仏寿寺の二十数名の法華講青年
  部や女房の貞子らを率いて千葉の誕生寺、清澄寺など日蓮宗の寺巡り。
平成五年の佐渡、翌六年の東北方面に続く三度目の謗法ツアーだった。
(右の写真は千葉の誕生寺に参詣した時の関快道)

◆平成七年六月六日、大石寺に「池上鶴林会」なる団体バスが到着。乗ってい
  たのは池上本門寺の貫首らで、高野日海(当時は東京・本行寺住職、故人)
  が案内役となって本山内を見学させたあと「蓮葉庵」で手厚く接待した。

◆平成七年八月二十日、総講頭の柳沢は阿部信彰が住職をしていた大修寺の法
  華講員約二十人を連れて身延山に参詣、宴会に興じた。

◆平成九年四月十八日、大石寺の無任所教師七人が西山本門寺の虫払いに酒や
  菓子折りなど御供養の品々を持参して参詣した。

◆平成九年五月十・十一日、横浜市の応顕寺住職・舟橋義秀が講員を引き連れ
  て佐渡の根本寺、妙宣寺、世尊寺、妙照寺などを巡拝した。舟橋義秀は帽子
  を深く被り、サングラスで変装。妙照寺の賽銭箱に講員が「チャリーン」と
  硬貨を入れて御供養し拝んでいた。

◆平成九年七月十五日には、身延山の坊主十数人が大石寺と妙蓮寺を訪れ参拝
  した。

◆平成九年八月十七日、東京・宣徳寺(秋元日高、当時は広学)の所化二人に
  引率された講員が鎌倉の龍口寺、極楽寺、収玄寺、妙本寺、安国論寺、妙法
  寺など寺院巡りを楽しんでいた。

◆平成九年九月十・十一日、東京・華王寺(前川日秀、当時は慈肇、故人)の
  一行が「佐渡研修旅行様」のバスに乗り、一泊二日の日程で佐渡の身延派の
  寺院巡り。

 根本寺、妙満寺、世尊寺、妙宣寺、実相寺、妙照寺と日蓮宗の六ケ寺を巡拝。
十日の葬儀を終えた前川は十一日に合流して大宴会。ホテル関係者は「こんな
に酔っ払って大騒ぎする坊さんは初めです」と前川の乱れた姿に呆れていた。

◆平成九年九月十七日には身延僧約三十人が大石寺に参詣。大石寺坊主の案内
  で正本堂などを見学。御影堂内では身延僧が御宝前にて合掌・参拝していた。

◆平成十二年九月二十八日には「身延山大学校」の学生が大石寺に参詣した。

◆平成十二年十二月六日、身延の坊主十七人が大石寺を訪れて客殿や御影堂な
  どを見学し参拝した。

◆平成十四年十一月二十六日にも邪宗坊主二十数人が大石寺に参詣した。

◆平成十六年四月十三日に 身延派坊主が大石寺を訪問、参詣した。
 他にもあるが紙数の関係上、以下は省略する。


 

フェイク 第1567号

 投稿者:宿坊  投稿日:2017年 2月 8日(水)10時30分39秒
  (発行=17.02.07)

日蓮正宗に「謗法厳誡」はない!
日如の教徳寺移転法要での説法に鉄槌 ②
役僧の女房らも邪宗の神社仏閣巡り

教徳寺の移転法要で日如は謗法厳誡が宗是であるかのような口ぶりで言い古
された台詞を得意満面で紹介していた。

 「昔から日蓮正宗では神社仏閣の前で草鞋(わらじ)の鼻緒が切れても、そこ
で結んではいけない、と言われたのです。この意味が解るでしょうか。それは
紐を結ぶ時に頭を下げてしまうからです。『形ばかりでも、謗法の社に頭を下
げることになるから、それは決してやってはいけない。鼻緒が切れても、先に
行って結べばいいのだから、それまでは結ぶな』と、昔から謗法の恐ろしさを
教えられてきたのであります」

 しかし、これを守っていないのが日蓮正宗だ。日如自身も以前、謗法厳誡な
どなかったと言っていた。

 改革同盟の山口雄在氏は昭和六十三年に宗務院で開かれた御書系年委員会の
席で日如(当時は義寛)が永栄義親に向かって「なあ義ちゃん、謗法厳誡なんて
言ったって昔は関係なかったな。子供の頃は小遣いを貰って、皆で浅間祭りに
行っていたよな。創価学会が出来てから謗法厳誡になったんだ」と笑いながら
語っていた。

日如の教徳寺での発言と正反対であるが、宗門には昔から謗法厳誡などなか
ったのが真相だ。

 戦時中は神札を甘受し、勤行の御観念文を改変して「皇祖」「皇宗」「皇国
守護」など神道に配慮した文言を付け加えた。

 そして「神社仏閣の前で草鞋の鼻緒が切れても、そこで結ばない」どころか、
伊勢神宮遙拝を「院達」で指示したのだった。

更に大聖人が末法の御本仏としての大確信を表された「日蓮は一閻浮提第一
の聖人なり」の一節など御書の御文を十四カ所も削除した宗門のことだから、
謗法厳誡は全く無かったのだ。

日蓮正宗が学会と縁が切れて邪宗になった今、昔のように謗法と親密になり、
身延派の寺を巡拝、或いは身延僧一行を大石寺で歓待して能化が蓮葉庵で接待
するなど慣れ親しんでいる。

坊主に限らず、役僧の女房連中は今も昔も邪宗に対して親近感を抱いており、
寺族の神社仏閣巡りは以前から行われていた。

例えば、昭和三十九年秋、阿部日顕の女房・政子、藤本日潤の女房・礼子ら
が、吉田日勇(故人、当時は渉外部長)らと共に真言宗の本山・高野山に参詣
した。

吉田は同行の婦人達と共に謗法の寺内で一夜を共にしての帰途、京都の平安
神宮に参拝した(左の写真を参照。写真㊤は平安神宮の大鳥居)

また、最近では大石寺の檀家総代が富士宮市内にある曽我神社の氏子総代に
なり、更に、長野県の信盛寺の総代が地元の小出諏訪神社の総代を兼務してい
たことも明らかになっている。

このように日蓮正宗には今も昔も謗法厳誡など存在しないのである。(つづく)



 

フェイク 第1566号

 投稿者:宿坊  投稿日:2017年 2月 7日(火)20時27分11秒
  (発行=17.02.06)

日顕ら日蓮正宗の坊主は堕地獄
日如の教徳寺移転法要での説法に鉄槌 ①
鳩・犬・猫を霞網、毒殺などで大量虐殺

日蓮正宗・法華講の機関誌「大白法」が二月一日付で教徳寺(栃木県小山市)
移転新築法要での早瀬日如の説法を掲載している。その中で仏意仏勅の教団を
誹謗しているので鉄槌を下す。

日如は「蟻子を殺す者は必ず三悪道に落つ。謗法を禁(いまし)むる者は不退
の位に登る」の御文を引いて「たとえ蟻の子一つを殺すのも、まことによろし
くないし、地獄に堕ちてしまう」それに対し「謗法を禁めることは絶対に罪に
はならない」と述べて「創価学会の謗法にしても、そうです」と学会攻撃を煽
っている。

日如は「蟻の子一つを殺すのも、地獄に堕ちてしまう」と言うが、鳩・犬・
猫を大量に殺戮した大石寺の坊主はどうなのか?

ジャーナリストの内藤国夫が、某雑誌で次のような〝事件〟を暴露(写真)し
た。

日顕が昭和五十六年に順天堂病院でノドのポリープを手術した頃から「鳩は
ノドに悪い」と忌み嫌うようになり、翌五十七年四月、大石寺では鳩を皆殺し
することになった。

鳩の対策に困っている各宗派の寺院では「殺生戒」を犯すことなく、空砲で
脅したり、金網を張ったり、避妊用の餌をまいて繁殖を防いでいる。これが寺
院における鳩対策の常識である。

だが、大石寺では鳩の殲滅(せんめつ)を決めた。

当時、大石寺には「鳥博士」を自称する野村慈尊がいた。日顕から鳩殺しの
担当を命じられた野村は境内のあちこちに霞網(かすみあみ)を張り、鳩を一
網打尽にした。網目に首が引っ掛かった鳩は絞首刑のようになって死んでしま
う。余りにも惨(むご)いため霞網の使用は禁止されているが、この時、殺さ
れた鳩は五百羽にも上った。

また、改革同盟の植松雄増氏、山口雄在氏は「本山での非教師指導会でも日
顕が『本山も鳩と戦争している。網を張ったりしている』等と口走ったのを聞
いたことがあります。当時は法主の物騒な発言に正直、驚きました」と証言し
ている。

蟻を踏み潰した日顕

 更に、大石寺の元従業員さんも動物虐殺の手口を語ったが、実に残酷なもの
だった。「当時、大石寺の境内に立ち入る動物は犬も猫も殺すよう内事部から
命じられていました」「犬の場合はソーセージなどを餌におびき寄せて捕まえ、
睡眠薬を飲ませてフラフラにして境内の人目につかない場所に生き埋めにし、
毒入りのソーセージを食べさせ、その場で殺したこともあった」という。その
中にはフリー登山で来た人が連れてきた血統書付きの犬もいた。

また、猫は罠の箱を仕掛けて捕まえ、箱ごと水中に沈めて溺死させたとのこ
とだが、これが宗教団体とは驚くばかりだ。

特に日顕は子供の頃から残虐性が強く行学講習会の講義で「不殺生」に触れ
た際、次のような思い出話をしたことがある。

「ワシは幼い頃、蟻の行列を見て友達と競争で楽しみながら踏み潰して徹底
的に踏み潰しまくったことがあった」と。日如は日顕の堕地獄を説いたのだろ
う。



 

フェイク 第1565号

 投稿者:宿坊  投稿日:2017年 1月30日(月)20時01分35秒
  (発行=17.01.29)

大火で失意の法主・日盛が隠遁
大石寺での消火訓練に関する一考察 ㊦
日英の「再住」まで二ヶ月間、猊座は空白

 日蓮大聖人は「経に曰く『設い大火に入るも火も焼くこと能わず、若し大水
に漂わされ為も其の名号を称れば即ち浅き処を得ん』又云く『火も焼くこと能
わず水も漂すこと能わず』云云、あらたのもしや・たのもしや」(上野殿後家
尼御返事)と記されている。

 このように大聖人が教えられている法華経の功徳に反して大石寺で火災が相
次いだのは何故か?

 最近の対山坊の坊主のように強風の日に焚き火でもしていたのか? 信仰心
がなく寺を守る責任感も使命感もなかったのか? 日顕とその一派の坊主のよ
うに堕落して遊蕩に耽って生活が乱れていたのか? 何よりも諸天善神が大石
寺を見放していたと見るのが妥当ではなかろうか。

 本紙前号で紹介した大石寺の火災のうち元治二年二月二十八日の大火は客殿
・六壺・大坊を焼失した被害に加えて、五十二世日霑と五十三世日盛との確執
が広く知られる契機になった。

この元治二年二月二十八日の火災と日霑、日盛について六十六世日達法主は
次のように述べていた。

 「第五十三世日盛上人の代になりますと『元治二年乙丑二月二十八日 客殿
・六壺・大坊を焼失(年表)』と、せっかく今まであった大坊も全部焼けてしま
ったのです。そのため、日盛上人は御隠居なされたのです。それからまた、霑
尊が再び猊座へつかれた」

 日達法主の話は事実とは違う。約二ヶ月間、猊座は空白であった事実を隠し
ている。日霑自伝等によると、大石寺は大騒動になっていた。当時、江戸にい
た日霑に南之坊の住職が、隠居していた五十一世日英の使いとして急報を持っ
て来た。

 「二月廿八日の夜半、大坊の下男部屋より出火し構内一宇も残らず焼亡すと、
是を聽き大愕悲動し、遽に東行を止め直ちに歸山を計り、其三月中旬歸山す、
爰に一山の大衆事情ありて大に沸騰し、擧って盛師に迫る、予聞にたへず…其
五月初旬,久成坊等同伴にて歸山す、蓋し此時に當て盛師は謝表を残して下之
坊へ隠遁の由、之を聞く…是に於て衆檀會議の上、英師御再住の事に結し予を
迎ふ」

 引用が長くなったが、要するに。大石寺が大火に見舞われた時、四十代の若
さで退座させられていた五十二世日霑は江戸へ出府していた。急いで帰山する
と、抗争の相手の日盛は誰にも相承しないで、日霑を避けて下之坊に隠遁、そ
の後は一時、行方不明になった。

 日盛の自伝によると、大火の翌日に辞任となっている。だが「富士年表」で
は五月七日に退座し、同日に第五十一世日英が高齢にもかかわらず「再住」、
その後は日霑が再び登座したと誤魔化している。

 ところが実際は三月、四月の二ヶ月余、猊座は空白だったのである。

 ここで特に注目されるのは衆檀会議、つまり僧と俗の会議で次の法主を検討
し、日英の再住を決めたことだ。

 平成元年六月、日顕は日霑の第百回遠忌の際に「日霑上人が書き残した自伝
の内容は一般信徒には知られたくない」旨、発言した。

 高僧の確執が知れ渡ると「富士の清流七百年」が粉飾された歴史だと分かっ
てしまうからだろう。

 この日霑と日盛の確執は別の機会に改めて詳述する。



 

フェイク 第1564号

 投稿者:宿坊  投稿日:2017年 1月30日(月)19時44分9秒
  (発行=17.01.28)

幕府権力の手先になり頻繁に火災
大石寺での消火訓練に関する一考察 ㊤
正法が滅して諸天善神が見捨てた証拠

一月二十六日は文化財保護法制定の契機となった法隆寺金堂の壁画が焼損した
日(昭和二十四年)に当たるため、この日は文化財防火デーになっている。

 この日、全国各地で防火訓練が行われ、池上本門寺(大田区)は文化庁次長と
消防庁長官が視察、唐招提寺(奈良市)には文化庁長官、消防庁次長が出向いた。

 大石寺は学会が修復した五重塔が国の重要文化財に指定されただけで、身延
山久遠寺、中山法華経寺などと違って〝国宝〟級の物は何もない。だが、あま
りにも頻繁に火災が発生しているため、消防署の関係者や大石寺自衛消防隊ら
が参加して防火意識を高める目的で実施されたのだろう。

 大石寺の火災に関しては、本紙前々号(一五六二号)で紹介した通り、今月十
四日午後二時半頃、富士宮市馬見塚の雑木林で火災が発生。百七十五平方メー
トルを焼いた。この雑木林は学会が寄進した対山坊の敷地内で、現在は一・二
階に宗門関係者が住んでいる。

 ここで日蓮正宗の坊主が、強風のなか焚き火をして火災になった。今年は、
このように防火意識が欠落した坊主を覚醒する意味を込めた防火訓練だったの
だろう。

 ところで、大石寺では開創以来、十三件の大火があった。そのうち十二件は
江戸時代以降に集中していることに注目したい。江戸期の寛永十二年から同一
五年にかけて寺檀制度が成立し、大石寺が幕府の手先になり、庶民を檀家とし
て〝支配〟するようになって以降、諸天が見捨てたことで火災が増えたのであ
ろう。江戸時代以降の火災は次の通り。

大石寺の火災一覧

○寛永八年十月十二日 大
石寺諸堂を焼失(石文)
○寛永十二年十月十二日 大石寺本堂、三門、坊舎残らず焼失(古文書)
○文化四年五月十二日 大
石寺塔中理境坊を焼失した(棟札)
○安政五年五月二十五日
大石寺遠信坊・寿命坊・学寮四箇などを焼失した(霑伝)
○万延元年二月二十五日
 大石寺石之坊より出火、富士見庵・寿命坊・遠信坊・学寮焼失(諸記録)
○元治二年二月二十八日
大石寺客殿・六壺・大坊を焼失(霑伝)
○慶応元年十二月二十三日
大石寺蓮葉庵焼失(霑伝)
○明治四十二年六月八日
大石寺塔中百貫坊を焼失(白蓮華)
○大正十三年十月三十一日
 大石寺塔中本境坊を焼失(院二二五)
○昭和五年六月四日 大石
寺塔中本境坊を焼失(院二七五)
○昭和八年十月二十三日
大石寺蓮葉庵を焼失(宗報A三七)
○昭和二十年六月十七日 大石寺大坊(対面所・大奥・書院・六壺)・客殿など
  五百余坪を焼失(寺誌)、この大火災の際、逃げ遅れた第六十二世日恭が焼死
  した(大過去帳)
  (つづく)



 

フェイク 第1563号

 投稿者:宿坊  投稿日:2017年 1月19日(木)17時15分2秒
  (発行=17.01.18)

「宗史では血脈は切れていた」と日顕
暁鐘の編集室が作成したパンフは間違い
日蓮正宗は謗法、信心すれば悪因を積む

暁鐘の編集室が「全ての苦悩を乗り越える力ある宗教とは」「お守りお札の
恐ろしさをご存知ですか?」等のパンフを作って日蓮正宗の信仰だけに功徳が
あるかのようなデマを謳っている。

この暁鐘は妙観講の機関誌で、その編集室が作ったパンフは苦心の跡が見ら
れるものの、結論から言うと、第六十七世を詐称したニセ法主・日顕が日蓮正
宗を日蓮大聖人の仏法と似て非なる邪宗教に変質させたため功徳がなくなった
のである。

パンフの内容のうち、間違っているのは〝日蓮大聖人の教えが七百年以上を
経た今日まで代々受け継がれ、今日、第六十八世日如上人猊下に至るまで正当
に継承してきた〟の箇所だ。

昭和五十四年七月、第六十六世日達法主が相承をしないまま入院先のフジヤ
マ病院で急死。その直後、受けていない相承を「受けた」と自己申告して〝盗
座〟した日顕は悩乱して「日顕本仏論」を宗内に蔓延させた。

日顕は娘婿の早瀬義純や法華講の内田和子らに「現代における大聖人様」と
言わせ、海外部書記だった福田毅道には「日顕本仏・日蓮迹仏」の大邪義を講
義させた。

また、能化文書には「本仏大聖人、戒壇の大御本尊、歴代の御法主上人が、
その内証において一体不二の尊体」とまで記述させていた。

この能化文書に名を連ねた七人の能化は死に絶え、早瀬義純も五十代の若さ
で急死したのである。

また、高野法雄は法主が大聖人の法門の全てを所持し、御書は法門の部分に
すぎないという「御書部分論」の大邪説を唱えた。

こんな例証をあげるときりがないが、極めつけは日顕が「相承を受けた以上
は生身の釈迦日蓮」(平成九年八月二十八日、教師講習会)と強弁したことで
ある。

これら日蓮正宗に蔓延する「法主本仏論」「法主絶対論」は三宝破壊の大邪
義である。

日顕の後の日如も相承なきニセ法主で、日蓮正宗大石寺は謗法の山になった。

大聖人は「地頭不法ならん時は我が魂は此の山に住すまじ」(富士宗学要集)
と御遺言されたが、地頭どころか法主が悩乱している今、大石寺は大聖人とは
無縁の謗法の山なのである。

宗門は、学会と決別した直後、当時の教学部長・大村寿顕(後の日統、故人)
らの時局文書作成班が「時局文書」を乱発していたが、その中で「血脈法水が
断絶したならば日蓮正宗が滅びる」と述べていた。この「時局文書」が皮肉に
も的中、血脈が断絶した日蓮正宗は衰退の一途を辿っている。

その「時局文書」には「唯授一人の血脈を否定するのは大罪」等と書いてい
たが、日顕が本行寺にいた昭和三十三年、〝宗門の歴史の中には血脈が切れて
いることもあるんだ〟と語ったことがある。血脈相伝は幻想にすぎないのだ。

そのうえ「日興遺誡置文」に悉く違背し、今日、大聖人の仏法とは無縁とな
っている日蓮正宗の信仰をすれば悪因を積むことになる。
……………………………
本紙前号で報じた対山坊の火災の原因は日蓮正宗の坊主の焚き火だったと判
明しました。

なお、日如の〝盗座〟は平成十二年ではなく、平成十七年なので訂正します。



 

フェイク 第1562号

 投稿者:宿坊  投稿日:2017年 1月18日(水)19時59分30秒
  (発行=17.01.17)

日如は現代の「謗法の両火房」
大石寺の敷地で約百七十五平米を焼失
強風の中、焚き火が飛び火して火災に

 早瀬日如が平成十二年十二月に〝盗座〟して以来、大石寺及びその周辺と末
寺などで火災が相次いでいる。今月十四日午後二時半ころ、富士宮市馬見塚の
雑木林で火災が発生。消防車六台が急行して消火活動に当たったが、約百七十
五平方メートルを焼き尽くして、地域一帯は騒然となり、警察も出動した。

 この雑木林は、かつて学会が寄進した対山坊の敷地内で、現在は一・二階に
宗門関係者が住んでいる。

 この火災は静岡新聞でも報道された。富士宮署によると、伐採した小枝など
を燃やしていた時に飛び火したということだが、この日は終日、激しい北風が
吹き続けており、地元の人達は「こんな強風の時に焚き火をするとは、どうか
している。勝手に焚き火をしてはいけないと禁じられているのに…」と語って
いた。

 この日は、たまたま火を扱う年始行事「どんと焼き」の各所を消防車が巡回
していたため、幸いなことに早く駆けつけることができたようだが、消防車の
来るのが、もう少し遅れていたら敷地内にある大石寺の建物も延焼して大惨事
になっていた。

 ところで、あの日顕は行く先々で何度も集中豪雨に見舞われて「雨坊主」と
呼ばれていたが、反対に日如は「火災坊主」と言えよう。

 日如が〝盗座〟した後の主な火災を列記する。

 平成十八年八月十二日午後四時前、物凄い雷鳴が轟いた瞬間、奉安堂の東側
に立つ杉の大木に落雷。杉の大木は中央付近から火を吹き、周辺には黒煙が立
ち込めた。これを「慧妙」は
「功徳」だと詭弁を弄していたが、その後も宗門には〝功徳の火災〟が多発し
た。

 平成二十一年六月に法道院でボヤ騒ぎ、同年八月には大石寺・駐車場で乗用
車十台が焼ける事件があった。

 同年十月十一日(日本時間十二日)にアメリカ・ワシントンDCの妙宣寺でお
会式の最中に火災があり、大騒ぎになった。

 更に、同年十一月十五日午後には大石寺の境内にある休業中の売店で、木造
平屋建ての建物八店舗、約二百五十平方メートルが全焼した。

 続いて同二十二年一月十七日午後七時頃、新宿区・大願寺(板東慈潮)から
黒煙が立ち上り、辺り一面には物凄い異臭が漂った。

 この直後の二十七日には大石寺近くの蓮成寺でもボヤ騒ぎが起こった。

 同二十四十二月十六日には延寿寺(高知県南国市内、当時の住職は川口盟道)
から出火、同寺の木造平屋の本堂と庫裏(住居部分)を合わせて約三百平方メー
トルを全焼した。

 日蓮大聖人は「両火房と申す謗法の聖人……」と良観の極楽寺が火事で焼失
し、良観が庇護を受けていた鎌倉幕府の御所でも火災が起こったので「りょう
かん」をもじって「両火房」と揶揄された。

 「火災坊主」の日如は、現代の「両火房」ともいうべき謗法坊主なのである。




 

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